浪人時代だったろうか、宮本輝の「螢川」を読んだ時、目の前で蛍が乱舞した。そんな「感覚の記憶」がある。文字を読むだけで脳内がその情景になる。本の内容は全くと言っていいほど覚えてないのだが、その感覚だけは未だに残っている。
蛍の写真を撮る時、この「感覚の記憶」が蘇る。さらにはこの感覚を写真にしたいといつも思う。でも、「感覚の記憶」というのは意外と曖昧で明確なものではない。それでいて、良い部分だけが誇張され、気持ちいい記憶にまでなっている。厄介でもあり、気持ちよくもある。
屋久島に住み始めてからというもの、毎年同じ場所で蛍を見に行くようになった。子どもが生まれてからは写真を集中して撮ることはできないが、ほんの数分間だけでも子どもが離れた時にシャッターを開ける。手の込んだ撮影はできないものの、撮ろうとする写真はあの「感覚の記憶」に近づけようと思ってしまう。かっちりしたアングルがあるわけでもなく、どのくらい蛍が飛んでいるかすらわからない。曖昧そのもの。だけど、近づけようと試みる。
良い写真が撮れたとか納得いかない写真だとか、その辺はそれほど重要ではない。記憶と現実を行き来しながら写真を撮る。シンプルに楽しい。そこに結果がついてきたら、にっこりする。そんなことを今夜もやっていた。
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